- Carlo Proietto Pyrography -

(DMより)

河口聖さんの紹介で、カルロ・プロイエット氏の焼き絵展を開くことになった。

パイログラフィとは、はんだごてのような電気で熱せられたこてで、板を焼きながら絵を描く技法らしい。

木材とこての先の金属の変化により、多様な表現が可能になる。素朴ではあるが、あまり見たことのない技法だ。

今回、ミラノのチエアートギャラリーの吉岡チエさんと共に、カルロ氏が来日することとなった。

初日の8月1日(火)、カルロ氏と吉岡氏を紹介したく、レセプションパーティを開くことになり、皆様是非お出かけいただくようお願いします。

 

8/1(火) 18:00~21:00 レセプションパーティ カルロ氏のパフォーマンスとビュッフェパーティ

8/5(土) 14:00~ 焼き絵のワークショップ (右上の写真) 参加費:¥3,000 ご予約下さい。

 

第13回正法眼蔵現成公案勉強会 2017/05/04-06

第13回正法眼蔵現成公案勉強会(能登・龍昌寺)

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村田和樹老師のお話し会「わたし、そして仏教をいきる」

2015年5月24日(日)14:00~17:00

         14:00~15:30 お話と質疑応答

         15:30~17:00 歓談と軽食など

参加費: ¥3,500.- (軽食と1drink付)

定 員: 25名 (先着順、ご予約ください)

場 所: ゆったりっちやない  〒164-0003中野区東中野2-25-6 PAO COMPOUND402

                     JR東中野駅西口より、都営地下鉄大江戸線東中野駅A3出口より、すぐ見えます。

ゆったりっちの柳井までご予約下さい。お問い合わせもお気軽にどうぞ。

090-1200-6828  mayumay02@gmail.com   PCからは mayu9ma1@gmail.com


第10回現成公案勉強会(DM文章)

今年もまた龍昌寺での勉教会にカラダが向き始めた。どうしてあの場に向かうのだろうか。手も足も出ないダルマに呼ばれる。ワタシに疲れたワタシが、ワタシにバンザイをさせられるために、このガンコなワタシにしばし休息をあたえるために、このあわれなワタシを湯の中にとかすために、勉強をしに行くのだろうな。 (福田澄子展DM)  

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10回目の正法眼蔵の勉強会になる。何事も10年続けると見えて来るものがあるのかな。ひとつはようやく正法眼蔵を読もうと思えることだ。ようやく少し正面からその道元の文章に向かい合う基礎が出来てきたのだろう。色々な問題の中を生きていて思い悩む毎日だが、このノイローゼを作り出しているのが自分の思いだけであると、ふと出会う瞬間が訪れた。ようやく静かなひと時が生まれた。とことん悩み続けることしか出来ることはなく、もっと具象的に悩むために、正法眼蔵にただ正面から向かうのだ。(田中千絵展DM)

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龍昌寺の勉強会は、10回目。とにかく何度も何度もやってきた。けれでもいつも初めてだった。開催を決めてからもいつもざわざわする。ほんとに行けるのだろうか、行きたいのだろうかと。こことは言えない分からなさに向かって走るかんじだ。ご興味のある方は加島まで。なお、4月18日は正成の結婚式に出席のため加島は不在です。(河口聖展DM)

ある晩の出来事

 そんなこんなをして龍昌寺での冬籠りの生活が始まった。ある時は雪が冬雷りと共に猛烈に降り始め、あっという間に一面の白い世界が現れた。次の晩雪が上がると、冷え込んだ大地の上の雪が氷のように張りつめ、そこに晴れた夜空に浮かんだ月から青い光りが照らし、一面の大地が青い光の中に浮かび上がった。寒さを忘れることができたなら、青いガラスの世界に移り住んだように思えた。

 ある晩のこと、夜中まで宿坊で本を読んでいた。電気を消し寝ようとしたが寝付けなった。ふとトイレに行きたくなり、障子を開き廊下にでた。その晩は雪も止み、新月だったのだろうか月明かりも無かった。真っ暗な廊下をトイレに向かって歩いた。身体で覚えていた感覚で角を曲がり洗面所にでて、これまた感覚でドアノブを探した。ドアを明けトイレに入った。そこでも外からの光は全く入ってこなかった。毎日使っているトイレなので、多分ここのへんに便器があるだろうと思い、見えないチュウリップの前に立ち、放尿を始めた。無事正しい小便の便器に跳ね返る音が聞こえ、真っ暗闇の中でほっと息を吐いた。その瞬間に意識が揺れ崩れた。まったくの暗闇の中で、自分が足の感覚で便所の床を感じていることと、放尿で跳ね返る便器の音以外何の確証もないまま、そこに立たされていることに、驚いたのだ。 まったく見えないのに、自分は、さもここに便器があるという想像と推論の果てに、ここに立っている。この暗闇の中でここが奈落ではないとどうやって確かめたらいいのか。そう思った瞬間、悪寒が背筋を走った。自分が奈落の上に立ち、奈落に向かって放尿しているように思えた。自分が自分だけの経験と推論の上に立ちその概念のなかから、観念の先に放尿していることに気がつかされたのだ。ぞくっと身震いをし自分の部屋まで順番道理に暗闇をだどって帰った。部屋にはまだぬくもりが残った布団があった。 

龍昌寺の冬籠り

ほとほと会社での事務仕事が嫌になっていた。どうやっても上手くこなせないデスクワークを無理して終えて、週末に新宿三丁目のレゲバーに出掛け、独りで天井に向かって踊っている自分にも飽き飽きした。何もかも辞めたくなった。辞めたいものは、テレビ、煙草、会社、そして人間。どうやったら人間を辞められるか、考える日々だった。だいぶデスクワークストレスでおかしくなっていたのだろう。とにかく逃げ出そうと思った。この中で一番簡単にやめられそうなのが、会社だった。とにかくゼロになりたかった。自分の人生を歩むために、時間が必要だった。本をちゃんと読み勉強をしたかった。

会社を辞めるとまずは宣言をした。宣言をしたら、「ウォーリーを探せ」が売れ始めた。やんなっちまうなあ。たまたまこの本の担当だったのだ。広告会社から商品権を取りたいので一緒にイギリスへ行きたいと連絡があった。その件を上司に相談すると、お前やめると言っただろう、と言われた。結局「ウォーリーを探せ」はシリーズ累計1000万部を売り上げることになるのだが、後の祭りだった。

 会社を辞め、身辺整理をし、しばらく龍昌寺に居候を決め込んだ。読みたい本を段ボールで送り込み、勉強するつもりで移り住むことにした。

 その頃龍昌寺には小林仁と福田澄子も一緒に住み込んでいた。小林は都会に美術大学を中退したあと、インドに一年ほど滞在し、その後都会に居場所を見つけられず、僕の誘いで龍昌寺にきた。福田澄子はやはり中学校の美術教師をしていたが、それはどう見ても無理があって、美術教師に見切りをつけ一緒にくっついてきた。彼女もまたインド経験者だった。年末の味噌作り、餅つきのイベントが終わると、ひっそりとした冬休みに入る。冬の1月、2月、3月の三か月間、龍昌寺の面々は自宅にこもって各々の時間を過ごすのだ。能登は本来はあまり雪深いところではない。輪島の街中は海が近いこともあって、さほど深い積雪はない。一歩山の中にある龍昌寺はそれとは別世界の感がある。冬には一メートル前後の雪が降るだ。一月も終わるころには雪がシャーといった音と共に積もり始める。全ての音が遮断され、人の行き来も途絶える。厨の広間で薪ストーブを炊きながら、夜な夜な三人で語っている。背後から迫る冷気と正面から伝わるストーブの暖かさの狭間に陣取り、何を一冬話していたのだうか。つい宵っ張りになって誰も朝を起きることができないので、夜の9時から座禅をしようということになった。夕食を終え一息ついてから、三人で本堂に向かい、座ることにした。始めは違和感があったのだが、だんだんと一日のリズムの中に坐禅が入り込み、本堂に向かう足取りに気が入りはじめていった。あんなに本を読んで勉強したいと思い、大量の本を持ち込み意気込みがあったのに、何を読んでいたかも覚えていない。ただ茫漠とつかみどころのない自分をそのままやれる場があったことがありがたかったのだ。その当時の龍昌寺にある食料は米と白菜と大根それだけだった。あの三か月間は毎日それをいろんな方法で食べていた。玄米のおかゆと白菜、玄米のご飯と大根。別に飽きることもなかったし、特別に買い物にも出かけなかった。なにか不思議な時間だった。その頃小林が断食にはまっていた。三週間ぐらいの断食をしてランニングをしたりしていた。僕も三日間の断食をためした。お蔭で今よりも12キロも軽い58キロまで痩せた。高校生の頃の体重だから、身体が軽く感じ気分は爽快になった。 

仮りの題 今日の気分

 今日の気分で書き始めよう。あの頃25歳から30まで自分の居場所のない感覚はどうしようもなかった。ただエンジンだけがブンブン回っているだけで、どこにも方向性が見つけられなかった。商売も金儲けも結構だが、それだけでは収まらない何かが加速していつも自分を襲っていた。何か手ごたえのあるもの、目標?みたいなものが、欲しかったがその仮定はあまりに陳腐で相手にならなかった。相手が欲しかったのだ。それは自分が壊れる、外される、破られるその体験にたいして、その掴みようのなさの虚無感に満ちた漂泊の精神にたいして、歯ごたえのある壁が必要だったのだ。その壁に向かって走り、飛込み激突し自分の骨を砕く、その傷みこそがその移ろいゆく精神が求めるものだった。

 能登の龍昌寺まで車を飛ばし、村田和樹さんと話をしてもらう。実際の行った行動はそれだけだ。繰り返し、龍昌寺を尋ねるに随って、自分の中の何かが変わっていった。少なくともこの不可解な自分を真っ当に相手にしてくれる人物に初めてであったのだ。あの当時の龍昌寺は賑やかでもあった。移り住んだ江崎家や板谷さん一家、和樹の家にも3人の子供がうまれ、総勢13人が厨で朝昼晩と食事をしていた時代のことだ。畑仕事を終え、食事を済ませ、子供を寝かしつけてから、夜の対話がはじまる。あの当時何を話していたのか、いまは全く記憶にない。録音でもとっておけばよかった。とにかく一体自分とは何なのか、自分と言える根拠はどこにあるのかと言った存在論的な議論や、禅的な議論、など徹夜で白熱した議論を繰り返していた。冬の3か月は雪のため、冬籠りをして勉強をする時間になっていて、その三か月の間は、話が始まると昼夜関係なくその議論は続いたのだ。時間が来たからとか、もう朝の4時だからとか、一切の制限が取り払われた議論だった。朝方までストーブの周りで、話し込み、そのまま寝込んで目覚めた途端に話が始まってゆくのだ。30歳のころのことだ、。ある時議論が白熱し、三日三晩つづき、自分のどうしようも無さだけがやけにハッキリとみえてい来たことが、あった。そう思った瞬間自分とは本当にどうしようもない存在だと思われ、追いつめられて自分は絶句してしまった。あのときの自分の精神の追いつめられ様をうまく表現することはできない。ただ闇雲に、目の前にあるものを手掴みで生きてきた自分のどうしようもなさ、生意気だけでふかしてきた自分、自信のなさ、どうにかうまくやり体面だけを作ってきた自分。前途洋々のはずが全く前が見えない自分。その自分の姿をちらりと見せつけられて、唖然とした自分がそこに居た。その時和樹さんがその自分に向かって、お前いいよな。、と言ったのだ。お前のその感じいいよなって。その言葉の衝撃を忘れられない。自分の悩んでいる頭の世界を透かして、通過して、胸元にすとんと落ちたモノがあった。その一言に僕の存在は救われたのだ。

 僕の存在が救われるというのは、僕という名詞でもないし、僕の思いでもない。自分の思いが破られて初めて見えてくるモノなのだ。モノに僕の思いは届かない、どこまでいっても伝わる事も、返事もない。 が、あるのだ。あるとしか言えないソンザイの光がひかりのままある。そのことに照らされてここに光っているモノ。その姿を、(つづく?)

自分の居場所がどこにもない

 あの頃の焦燥感、自分の居場所のなさを思い出すと苦しくなる。どうしてあんなに違和感ばかりを感じてしまったのか。環境から来る外的な原因は色々と考える付くのだが、そんなことは誰にでもあるのだろうと思う。その原因のせいにしても、その疎外感、違和感は解消されるわけではない。与えられた状況の中で、いかに自分の人生を展開してゆくかが問題なのだが、そのやり方が見つからないのだ。通常の考え方が通用しない事態に直面しているのだ。

 この焦燥感の理由を考えていたら、袋小路に入ってしまった。

まあ気負ってもしかたがないか。

 まあ気負ってもしかたがないので、うつらうつら書き始めよう。いま思い出しているのは、アメリカの大学での出来事である。あまりに受験勉強が出来なくて何処の大学にも入ることが出来なかったので、無理矢理アメリカの大学、オレゴン州にあったリンフィールドカレッジに親父の友達のコネを使って潜り込んだ時代のことである。僕が23歳のころだから、かれこれ34年も前の話だ。もともと基礎学力がなかったから、当然英語力もあやふやでいきなりアメリカの大学の授業についてゆくのは大変だった。何を勉強したかったのかも明らかではなく、ただ日本で置かれている自分の行き詰った状況から脱出し、息をしたかった。前に進む希望を見つけたかったのだろう。自分の居場所がなかったのかな。まあとにかく英語を習得し少しかっこいい自分になりたかったわけだ。しかしそれは当然うまくいかなかった。明確な目標なしに英語に挑むことは、無謀な試みだったのだ。しかしそのころは何も分からなかったな。暗中模索というのはあの時代のことをいうのだろうな。とにかくヒリヒリする神経とそれを覆う皮膚だけが毛羽立ってしまい、内側では大量のエネルギーを蓄えたエンジンがプンプン廻っているのだが、どこにハンドルとブレーキがあるのかが見つからない状態で、アメリカまで無理矢理飛んでいった。この当時の自分を思いだすとほんとに哀れなもんだな。とにかく分からないまま、大学の授業が始まって、初歩の哲学の概論やら、アメリカ文学、東洋史など自分が興味ある科目をこなす毎日になった。

 あれはいつのことだか明確には覚えてはいない。たぶん留学して二年目の秋だったろうか。その頃にはだいぶ英語にも慣れ、生活英語には困らなくなっていたが、まだ大学レベルの英語と格闘していたころだ。リンフィールドは小さなリベラル系の大学で、生徒の数も800人程度のこじんまりした小さなプライベートカレッジで、さほど大きくないキャンパスに寮が立ち並びんでいた。アメリカの大学のいいところは図書館が併設されており、その図書館がほほ24時間開いていて、いつでも勉強できるし、居心地の良いソファーが点在していて、気持ちのいい居間としても使えることだった。ある晩、何か調べものをしようとその図書館を訪れたときのことだ。図書館の入口、普段は司書が案内をしてくれるカウンターの前に一台の書見台が置かれており、その上に分厚い百科事典が置かれていた。薄暗く照明を落とされたその部屋のなかで、その書見台だけにスポットライトが落とされていた。ふとその光の先を覗きこむと、そこにはインドの弥勒菩薩の姿の写真が目に入ってきた。話したいのはただそれだけの事実である。ただ面白いことにその写真が目に入ったその瞬間のことは今でも鮮明に思いだせるのだ。あの静かな空間、あのひんやりとした図書館の空気、あまりに鮮明に弥勒菩薩を照らすライト。それらが、時空を超えていきなり僕の視覚に飛び込んで来たのだ。そしてそのことは、特別な注意も払われることなく忘れてしまことになる。

 とにかく英語で哲学を勉強するつもりでいたのだ。とても一人では歯が立たないのでチューターという個人教授をつけてもらい、毎週の課題に挑戦する日々だった。まったくもう頭でっかちのただ生意気なガキほど困ったものはないよね。英語もろくすっぽできないのに、哲学なんてさらに分からないものを勉強しようってんだから、こまったもんだよ。英語も分からずウンウンと唸って、さらに分から無い哲学でウンウン唸っていた毎日だった。この哲学の初歩コースは面白かった。初期のギリシャ哲学からほぼ現代哲学までを半年間で勉強するのだが、各自時代の哲学者の著作の代表的な文章を4,5ページにまとめてあり、それを始めから読破してゆくコースだった。哲学者の文章は特殊だが、技術用語と同じで、慣れてくれば読解は可能だった。その面白さもあり夢中になって300ページくらいあった分厚い本をずいぶん丹念に読んだ。しかし、それに対する自分の意見を英語で書くことはまた別な難しさが生まれ、試験は散々な結果になった。とにかく自分では満足いく学期だった。ようやく試験も終わり、その前の晩自分の寮にあるホールで勉強してのだが、そこに忘れてきたその教科書をとりに行ったのだが、それは無くなっていた。どうやら誰かに盗まれてしまったのだ。学期が終わるごとに、その学期に使った教科書を学校の売店に持ってゆくとそれを買い取ってくれるのだ。だれかがそのわずかな金のために、半年苦労して読んだ本を持って行ったのだ。これにはちょっとがっくりとした。半年の苦労がわずか数ドルで売られてしまったのだ。頭でっかちの哲学お坊ちゃんの頭のなかにはその頃経済という概念、お金の苦労が存在していなかったのだ。

 まあそんな馬鹿なことを大真面目でやっていわけで、そりゃ経済的にも精神的にもつぶれることになる。感覚だけを頼りに英語を無理矢理飲み込すぎて、どこに自分の言語のアイデンティティーが有るか分からなくなってしまって、精神がどこかでフリーズしてしまい、どうすることも出来なくなっていた。まあいま考えれば自分の居場所を作りにアメリカまで出かけていったのだろうが、それを英語世界で作る具体的な方法を考えなかったのが間違いだな。自分の居場所が無いという感覚、焦りはその頃常にあった。自分が何者かも判然としないし、何をしたいのかと問うても明確な答えがでない。その時どきの飢えと渇きの衝動に動かされるまま、何かを掴もうと必死にもがくが、ただ虚しさのほうが茫漠と胸の内を占めてくる。それに抗う、それを埋めるものはどこにも見当たらない。別に楽しくなかった訳でない。その頃を思い起せば様々な楽しい思い出が蘇ってくる。しかしその虚しさの感覚はその後もしばらく、解けることのない問題として自分の人生を支配し続ける。

 どうにか自分の居場所を求めて出かけたアメリカの生活の2年半を挫折で終え、日本に強制生還された僕は親父にネクタイを締めろと言い渡され、翌週から翻訳の著作権事務所に放り込まれる。25歳からの丁稚奉公に出されることになる。そこで4年半手紙の開封とコピー、書籍の梱包、子供の本の営業をすることになるのだが、その自分の居場所を見つけることはできなかったのだ。

 この時期に一つの出会いがあった。それはアメリカから帰国した翌日友人宅を訪れると、そこに村田和樹さんがいた。これは偶然ではない。じつは母親に一度村田さんに会うよう強く勧められたのだ。始めてみる坊主頭だった。そこでの会話を明確に覚えている。和樹さんが両手をパンと叩き、禅ではこれはどっちの手の音だと問うのだ。と言った。その瞬間ムカッと来た僕は、どうして禅は答えのない問題をわざわざ出すんだ。と問いただした。その時、和樹さんがギッと僕の顔を睨みつけた。それが和樹さんとの初めての出会いだった。その目と出会いが、仏教とのファーストコンタクトだった。

 神田神保町でのサラリーマン丁稚奉公生活が始まった。志望動機欄に借金返済のためと書いたら却下され、試用期間3か月が6か月に延ばされた。あんまり暑いので半ズボンで会社に行ったら、隣の女の子が話をしてくれなくなった。来る日も来る日も、コピーマシンの前に立ち、窓から変わらないビルの風景を眺めていた。その頃ちょうどバブルが神保町の地上げから始まっていた。僕の給料は月13万円でいくら働いても上がる見込みはなかったにもかかわらず、神保町の古いビルは壊されるだけで、一坪一千万の値が付き、そこには雑草が悠々と生い茂る始末だった。なんだかへんな時代だっだな。週末になると新宿3丁目にでかけ当時はやっていたレゲバーに行き、一人壁に向かって踊っていた。それしか出来なかったなあ。なぜこんなことを書いているかと言えば、問題は自分の居場所がどこにもないという問題がどうしても解決しなかったのだ。

 外国の本の翻訳権の営業に求められる能力は、ベストセラーになるような本を出版社に持ち込み、その翻訳権を高い値段で売ることだった。その契約料の出来高が業績になるわけだから、瞬時にその本の可能性を判断し、売り込むことが肝心なのだ。そのためにいち早い情報の把握と流れを作る営業力を求められた。この仕事の内容と自分の居場所はどこにあるのかと言った個人的な悩みとは全く相入れることはなかった。そのためどう考えてもこの会社に自分の可能性や未来があるとは考えられなくなっていった。当時はこんなに明確に自分の状況を言葉で認識することはできなかった。だだ重苦しい違和感の中でもがいていただけだ。

 そうするうちに帰国後訪ねた友人が一家そろって能登にある龍昌寺に引っ越すことになった。僕もその引っ越しを手伝うことになり、トラックに自分の50ccのバイクを積み、旅行気分で龍昌寺を訪れたのが初めて能登だった。初めての能登はうら寂しく感じられ、何でこんなところに移住するのだろうといぶかり、僕は自分のバイクに乗り、ほうほうのていで逃げ出して帰った。それがどうして龍昌寺に、通うようになったのか記憶がない。東京のコピー生活に疲れていた僕は次第に龍昌寺に通うようになっていった。休みがあればそのたび、車で龍昌寺まで片道10時間を掛け、通いはじめたのだ。